何谓唐代

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内容简介:

本书以广阔的东欧亚世界为舞台,全面介绍世界帝国唐朝二百九十年的历史。起于隋末大乱的唐朝,在十数年间陆续平定群雄割据,并攻灭东突厥,唐朝皇帝被尊为“天可汗”,建立起统治农耕、游牧、绿洲等文明,具有世界影响的大帝国。此后不断扩展,臻于至盛,至“安史之乱”急转直下,开始走上漫长的转型之路。

作者森部丰教授专攻粟特人研究,在现有政治史研究的基础上,他从粟特人的迁徙、定居、建立势力,参与并融入唐朝政治军事活动着手,剖析了唐朝不同于既往朝代,能够兼收并蓄、开放包容的侧面,以及伴随体制变迁经历的历史性转型,展现出一幅全新的唐代历史面貌。

★荣新江教授作序推荐

森部丰的这本书,是按照给日本读者阅读而设计的,其实也完全适合于中国读者。其以唐代政治史为主要内容,按照时间先后,从唐朝的建立,一直讲到唐朝灭亡后的五代十国。他特别强调本书不同于此前出版的日文唐代历史的概说书,一是把唐朝历史放置在整个“东部欧亚大陆”的广阔空间里加以阐述,而不是只局限在“中国”历史的范畴中叙述;二是更详细地讲述唐代中晚期的历史,这是此前的唐代历史概说书比较简略的部分……

从这种“东部欧亚大陆”史观来看唐朝,时间上突破了“唐宋变革论”,地域上超越了“征服王朝论”,无疑是有极大包容性的。本书作者用简练的笔墨,把近年来日本学界利用这一理论讨论唐朝的种种观点,纳入自己关于唐史的叙述当中,让我们了解到这种理论的解释力度。

作者简介:

作者简介:

[日]森部丰,1967年生于爱知县,专攻唐五代史、东欧亚史。现为关西大学教授。著有『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史的展開』(《粟特人在东方的活动和东欧亚世界的历史性展开》)、『安禄山―「安史の乱」を起こしたソグド人』(《安禄山——发动“安史之乱”的粟特人》)等。

译者简介:

马云超,南京大学历史学博士,现为南京大学中国思想家研究中心助理研究员,主要研究方向为古代中日关系史、东亚海域交流史。曾在《世界历史》《江海学刊》《史林》等学术期刊发表论文二十余篇,主持国家社科基金项目一项,另有独立译著七种。

前 言 001
序 章 如何看待唐朝的历史
第一节 空间——何谓“中国”?  006
第二节 时间——时代划分和时期划分  008
第三节 视角——如何把握唐朝  015
第一章 朝着东欧亚帝国飞翔
第一节 唐朝建国  022
第二节 李世民:天可汗之路  041
第三节 太宗的内政与外交  052
第二章 武周革命
第一节 高宗与武皇后  066
第二节 武周建国  082
第三节 唐朝统治的动摇  099
第三章 转换期
第一节 武韦之祸  110
第二节 开元之治  115
第三节 绚烂的天宝时代  132
第四节 暴风雨前夜  142
第四章 帝国的变迁
第一节 “安史之乱” 150
第二节 唐朝的混沌 161
第三节 走向财政国家 169
第五章 王朝的转型
第一节 唐朝“中兴”  184
第二节 游手好闲的皇帝们  193
第三节 宗教弹压风暴  207
第六章 迈向新时代
第一节 军人和民众的崛起  218
第二节 “黄巢之乱” 226
第三节 唐朝灭亡 238
终 章 世界史中的“唐宋变革”
第一节 “五代十国时代”的看法 252
第二节 东欧亚世界中的唐朝 258
附 录
后 记  265
文献指南  270
图表出处  300
唐朝相关年表  303
译后记  310
· · · · · · (收起)

原文摘录:

そのため、一九四五年の日本の敗戦と一九四九年の中華人民共和国の誕生は、戦前の一般の日本人がもっていた中国の歴史に対するイメージをうちくだく大きな衝撃だった。なぜなら、中国社会は、その内にみずから発展する力をそなえていることが証明されたからだ。さらに、社会主義国中国の誕生は、中国にも奴隷制、封建的農奴制、資本主義社会をへて共産主義社会にいたるという「世界史の基本法則」が存在したことを、中国自身が証明したように見えたのだ。こうして戦後の日本では、俄然、マルクスの唯物史観によるこの「基本法則」を中国史にあてはめて研究しようという機運が高まっていく。(P8)

また、研究がすすんで精緻になると研究テーマも細分化し、時代区分論争も下火になっていった。
このような学界の傾向と並行し、一九八〇年代以降の中国では「改革.開放」政策による経済成長が顕著になっていく。このことは、中国がみずから発展する力をもっていたことを、世界に知らしめる一方、第二次大戦後に生まれた日本の若手の中国史研究者にも多かれ少なかれ影響をあたえたことは十分に考えられる。つまり、中国が内在的発展力をもっていることがあたりまえとなり、中国史研究のアプローチとして、「基本法則」的な関心がうすれていったのである。(P10) (查看原文)

cc修文
2023-03-26 19:57:05

—— 引自章节:2 時間——時代区分と時期区分

このような政策をとったのは、煬帝の関心が遊牧文化になく、漢人固有の中国古典文化にそそがれていたからだという。これは、北魏の孝文帝が「漢化政策」をおしすすめたときの状況と似かよっており、隋という世界の中で疎外感や差別をひしひしと感じる人びともいたことだろう。そのため、煬帝に対して反乱をおこした人びとの中に、西魏・北周・隋という政権の中核をになった者もいたのである。いいかえれば、隋末の群雄のうち、そういった人びとは、鮮卑・拓跋の復古という意識を、多かれ少なかれもっていたのではないだろうか。(P26)

中国では、南北朝時代から唐の前半期にかけて、門閥が政界や社会に根強い力をもっていた。そのため、皇帝は門閥勢力と合議によって国政をおこなわざるをえなかったが、この門下省は、その名残であるという説がある。(P45) (查看原文)

cc修文
2023-03-26 19:57:05

—— 引自章节:隋末の反乱  李淵の出自  李淵、立ちあがる  隋唐革命